半生日記

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2007年12月19日

半生日記10

30歳を過ぎた頃、またまた、画期的な商品が発売されました。それは、ワープロです。
その頃、仕事は、本社勤めになっていたので、丁度会社が初導入する、場面に居合わせたのです。
OA時代のはじまりです。その導入された、ワープロは今の大型コピー機ほどの、大きさがあり、
価格は200万くらい。高価な商品だったのです。それも、本社にたった、1台。使用するには、
数日前から、予約が必要でした。新し物好きな私は積極的に予約をし、仕事でもないのに、
とにかくさわりまくりました。ディスプレィは、いまでは考えられない、10インチほどの
小さな黒白のもの。今からみるとお粗末なものですが、当時は、最先端の技術の象徴でした。
キーボードは、タイプライターの教本を買ってきて必死で勉強したものです。
はっきり言って、驚きでした。程なくして、FM8というパソコンが1台導入されました。
「パソコン」という響きに私は迷わずひきこまれました。欲しくて欲しくてたまらなくなったのです。
しかし、これも1式そろえると数十万円。とても手のでるしろものではありません。
その頃、パソコン言語として、ベーシックというものがありました。これからの時代、
ビジネスマンとして、生きていく為には、ベーシック習得は、必須である。というような、事
が、世間を覆っていました。私も右へならえとばかりに、テキストを数冊購入し猛勉強を
はじめました。ところが20行、30行くらいのプログラムを書くのも大変で、
たとえ作ったとしても、とても仕事にはつかえませんでした。
せいぜい、簡単なプログラムの入った、カセットテープを購入して遊ぶくらいが関の山でした。
posted at 23:05
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2007年12月17日

半生日記9

私が27歳位になった頃、テレビ大好き人間の私にとって、カラーテレビに匹敵するような、
商品が発売されました。そう、夢にもおもわなかった、ビデオレコーダーが発売されたのです。
しかし、価格は40万円位。とても手の出る代物ではなかったのです。欲しくて欲しくて
たまりませんでした。まさに私にとっては夢なのです。それから、1年、買うチャンスもないまま、
時はすぎたのです。私の好きなスポーツは、プロレス。それもアントニオ猪木が大好きでした。
勿論、力道山の頃からのプロレスファンですが、とにかく猪木が好きだったのです。
その猪木が当時としては、画期的な試合、それは空手との異種格闘技戦だったのですが、を行い
それが、テレビで生放送する予定だったのです。しかし、その日は仕事。それも夜23時まで。
到底、20時の放送に間に合うわけはありません。悶々として、試合2日前、とうとう、なけなし
の貯金をおろして、ソニーのVTRを購入したのです。その頃は下がっていたとは言え、まだ30万台。
大決断が必要でした。テープも高く、確か、2時間テープで1本、8000円位したと思います。
タイマーなど、付いてるはずもなく、母親に放送5分前に電話して、手押しで録画してもらったものです。
この状況は一年ほど、続きました。ほどなく、タイマー付きの10万円台の機種が発売され、
あわてて購入したのはいうまでもありません。しかし、まだまだ、この問題は尾をひきます。
当時、録画方式はベータとVHSの2方式に分かれていて、次第にベータは押され、次々と姿を消して
いったのです。私はソニーなので、珍論ベータ。ここでまた、悩んだ末、ベータを捨て、VHSに鞍替え。
テレビ好きは止まりませんでした。
posted at 21:26
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2007年12月15日

半生日記8

期限になっても、とうとう、慶応からは、合格通知はきませんでした。やはり不合格。
2浪しようかな。とは一瞬思いましたが、不本意ながら、中央大学に通うことになりました。
こういう、経緯で私の大学生活が始まったのです。この4年間は、非常に無意味に過ぎ去った
4年間でした。クラブ活動、ゼミ、勉強などは一切せず、ただ、怠惰にすごす毎日。
あっという間に卒業が、せまり、周りは次々と内定をもらっていきました。
私も一応、会社訪問などしましたが、あまりにも成績が悪く、ほとんど相手にしてもらえません。
そして、ようやく、すべりこんだのが、当時ではまだ珍しい、ファーストフード業界。
そう、ハンバーガー屋さんです。まだ、伸び盛りで1年で何十もの新店がオープンしていた、
時代でした。私もようやく、社会人としてのスタートラインにたったのです。さいしょのお職場は
、静岡県の清水。家を離れ、3人二部屋の寮暮らしがはじまりました。しかし、伸び盛りとは
いっても、そこは地方都市。若者は少なく、かなり暇な店でした。そこを皮切りに5年くらい
の間に転勤が数回。その間に店長にもなり、かなりの数のアルバイトを使う身にもなりました。
ただ、よくいわれる、年商1億の経営者のつもりでやれ、それだけのスキルは身に付く。
といわれますが、今考えるとそんな、事は決してありません。資金繰り、支払い、税金など、
肝心な事は全部本部がやるのですから、本当の意味でのスキル、苦労は自分自身のものにはなりません。
外の社会に出て行ったら、通用しない事はその後、いやというほどわかりました。
世の中はそんなには甘くありません。
posted at 22:49
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2007年12月13日

半生日記7

そんなこんなで3校の受験を終え、放心状態。当時、早稲田大学は、返信封筒を願書と一緒に
提出すれば、合格点数と自分の点数を教えてくれました。私は勿論、返信用封筒とともに願書提出。
神頼み状態。そしていよいよ合格発表、まずは早稲田の商学部。自分では見にいく勇気などあろうはず
もなく、母親に頼みこんでみにいってもらいました。私はひたすら、自宅で電話のなるのを待って
いました。ほどなく、母親から電話。結果は?やはり不合格。目の前が真っ暗になりながら、受話器
をおきました。やはりだめ。この時、2浪をはっきり覚悟しました。数日して、今度は慶応法学部の
発表。今度も自分ではいかず、母親に頼みました。今回は前回ほど緊張せず、ほとんどあきらめていたので、
かなり余裕でした。そうこうしているうちに電話がなり、それをとると、前回とは違ったトーンの母親の声。
結果は?内容を要約すると、確かに私の受験番号は掲示板にあった。あった事はあったが、
ただし、補欠蘭に!要するに、辞退者が出た場合、繰上げ合格になるとの事。学校関係者に
聞いた所によると例年、ほとんど、が繰り上げ合格になるとの事。母親はかなり有頂天。
私も半信半疑ながら、期待はふくらむ一方。それから、毎日10回は、郵便受けを確認しに
いくことになりました。中央は合格したものの、そんなにはいきたいとは思いませんでした。
そのころ、早稲田から、結果報告の郵送がきて、2点足らずで不合格だったことが判明。
悔しいには悔しいが、全くの自宅学習でそこまでいったことに正直びっくり。
それも正味半年の受験勉強。まあ、結果がすべてですが。そして、慶応は?
posted at 21:25
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2007年12月11日

半生日記6

国語、社会はともかく、こつこつとした勉強が必要な英語は、学力はほとんど、無い状態。
また、予備校も通学をやめていたので、完全な独学。そこで、読解力、文法、英作文、単語
の大きなジャンルに分けて、薄いのでは不安でしたので、中くらいのボリュームのものを、
各1冊購入し、いわゆる、潰す。(とはいっても、反復するだけでしたが)という、作業
にはいりました。暑い8月、当時は現在みたいにエアコンなどあろうはずもありません、。
扇風機のみをたよりに、ともかく、すきなテレビを忘れ,ひたすら、この作業にはいりました。
しかし、秋口に入り、涼しい秋風が吹くようになっても、依然、学力は低空飛行のまま。
実力がついたという感じは全くありません。英語の長文問題を読んでも、知らない単語の
オンパレード、不安ばかりが募ります。社会は世界史でしたので、これは高校時代の教科書
を反復して、暗記するのみ。国語は時間がないので完璧にすてました。日々、英語と社会
の繰り返しで、終始しました。勿論、世間はクリスマスだ、正月だと浮かれていますが、
当然のようにそんなものは無縁。その頃には一日10時間以上は、内容はともかく、机
に向かっていました。今考えてみれば、一つの事に集中したのは、これが人生で最大の
イベントでした。1月に入り、寒さも格段と増し、鉛筆を持つ手がかじかみ、鼻水が
垂れ流し状態になりながらも同じ教材を繰り返し、繰り返し勉強しました。そして
2月は私大の受験月、早稲田、慶応、中央と2浪覚悟で願書提出。自分の実力、
やってきた、教材の幅の狭さを考えると、身の縮こまる思いでしたが、こうして、
私の人生の最初の賭けが始まったのです。
posted at 22:18
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2007年12月09日

半生日記5

受験日はすぐ、やってきました。一応、北九州一の進学校だったので、、周りはみな、
国立を受けます。しかし私は、そんな実力は皆無。しかし、一応形だけは国立を受験。
旅行気分で北海道へ。東京へは滑り止めの私立大学を受けに。結果は?当然、全滅。
3月にはさみしく、浪人確定。暗い、暗い春がはじまったのです。すべて身から出た錆
とはいえ、現実は非常につらいものがありました。それと同時に父親が再び、東京へ
転勤。高校時代の友人とは離れ離れ。孤独感もあいまって、この時期、精神的に、非常
につらい、ものがありました。4月には東京都内の大手予備校へ入学。しかし、200人
単位の大人数の授業に全くなじめず、5月には全く通学しなくなりました。自宅に籠って
勉強と決意したのですが、こんなせっぱつまった状況でも、幼少よりの悪癖、これは
、現在もなおってはいませんが、そう、テレビ病です。参考書を見る代わりに、
新聞のテレビ番組欄とくびっぴきで、自分のすきな番組を探し出して、、その時間
がくると、テレビの前は。まさにテレビ漬けでした。そんな生活をしている、うちに
時は、早、8月。さすがの私も、なんらかの決断と実行をしなけらばならない、時期
にきていたのです。私の志望は身の程しらずの、国立理系。受験科目だけでも、9科目
あります。一日の勉強時間が30分ほどの自分には到底、無理な志望。そこで、夢を
あきらめ、急きょ、一番、科目の少ない、私立文系へ鞍替え。私立文系、は、国、社、英
の3科目。残り、半年しかない、自分には、もうこれ以外の選択肢しか、残っていなかったのです。
posted at 20:59
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2007年12月07日

半生日記4

それまで、白黒テレビで、わからかなかったのですが、実は当時は、番組は、一部カラー放送
で通常は黒白放送、ゴールデンタイムだけカラー放送だけだったのです。従って、夕方は
黒白放送、20時からのカラー放送を待たなければならなかったのです。しかし、その日
初めて我が家で見た、カラー放送、その感動は今でも忘れません。それまで、カラーは
映画館だけ。それが我が家で見れるなんて。まさに夢見心地。人気歌手の衣装の色も、
それまではわからなかったのが、色鮮やかに再現されて、驚愕の連続。まさに、第2の
娯楽の到来です。生粋のテレビっ子だった私のテレビ視聴時間は延びる一方。カラー
放送であれば料理番組までみる、始末。当然、勉強時間は少なくなる、一方。受験勉強しなければ
ならない、身としては、致命的。成績は下がるばかり。危機感一杯感じる事は感じたものの、
テレビ視聴時間は減るどころか、増える一方。高校三年になっても、この生活態度は、全く、
変わりませんでした。特に洋画放送は当時の私には魅力的で欠かさずみたものです。淀川長治の
日曜洋画劇場は、彼の最初と最後のトークの面白さもあって、大のお気に入りでした。
さらに、悪いことに、せいせきの下降に加え、1.2あった視力もみるみる下降。0.1に
ついに、眼鏡の購入にいたったのでした。正直、勉強もほとんど、していないのに、
視力が下がったのは、さすがにショックで、当時の幼稚な私でさえ、今までのテレビ三昧の
生活に危機感を覚え、あわてて、本屋へ駆けつけ、親にせびった金で受験参考書を、
一式購入。少しは受験勉強をやる気になったのでした。しかし、時は高校3年の12月、
受験はもう、目の前でした。
posted at 21:49
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2007年12月05日

半生日記3

そんなこんなで高校時代、ちょうどこのころ、父親の転勤で、北九州市、
小倉に引っ越し。生まれてから、主に東京しか、生活した事ことがなかった、
私には、かなりのカルチャーショック。まず、一般家庭はほとんどが、あの
なつかしい、汲み取り便所。そのころは東京は少なくとも、23区はほとんどが
水洗便所。仮にも100万都市、北九州市の中心である小倉でもその程度。
下水道の完備も十分でなく、みちの両脇にはどぶが!!そのせいか夏になると、
蚊、ハエが大量発生。子ども時代の記憶が鮮明に蘇る事しばしば。また、私の通っていた、
県立高校は坊主頭が校則。かばんは肩掛けの布製。もちろん靴はズック。また微妙な方言に
悩まされながら、私の九州生活が始まったのです。この頃の生活の変化の最大のものは、
我が家がカラーテレビを購入したことです。当時の大卒の初任給は2万弱。カラーテレビは
なんと19インチで20万。父親も奮発したものです。ただし、父親はごく、普通の
サラリーマンです。念の為。それまで、電気屋でちらほらカラーテレビを見ていたものの、
夢のまた夢。縁遠いものでした。それが我が家でみれるとは!配達予定の日はあいにく
学校。一刻も早く家に帰りたくてしょうがありません。終業のベルがなるや否や、
脱兎のごとく教室を飛び出し、一目散へ家へ。玄関を開け、テレビの設置されている、
今へ。早速スイッチを入れると、鮮やかなカラ画面がとおもいきや、そこはいままでと
変わりない、黒白画面が?・・・・・・・なぜ?
posted at 22:05
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2007年12月03日

半生日記2

さすがに中学入学の頃になるとガス風呂が普及し、銭湯に通う家庭も減ってきました。
また、悪名高き汲み取り便所も水洗化し、日本人の生活も段々に西洋化の波が押し寄せて
きました。もっとも、今の西洋式の便座と違ってしゃがみ式の和式がほとんどでした。
そんな、清潔感あふれる環境も大都会だけの話。大都市郊外、地方はほとんど、
旧来の汲み取り便所のまま。あの独特の目にしみる、アンモニアの刺激臭、いま
考えるとなつかしい気がしますが、もうあの頃の環境には戻れないでしょうね。
ちなみに、ハエ取り紙って、知ってますか?当時は今と違って、大規模スーパー
などない時代。買い物はほとんど、個人商店、つまり、魚屋さん、八百屋さん、
パン屋さん、かいものかごをもって、それらの商店にいくのが普通でした。
特に魚屋さんは冷蔵ショーケースなどまだ珍しい時代でしたから、ほとんど、
保冷は、並べた魚に氷がかけてあるだけ。夏などは、においにつられた、
蝿の大群にたかられる始末。そこで、ハエ取り紙の登場です。天井が何本
もつるした、何本もの、粘着テープ、そこにびっしり!!とハエがつき、
今みたら、卒倒しそうな光景が、どこの魚屋さんでも繰り広げられて
いました。それでも、みんな、当たり前のように、魚を購入していました。
たとえ、それを食べて、現代でいう、食中毒の症状になっても、
なになににあたった。それで腹壊した。なぞ、その程度で終わっていました。
そんな時代だったのです。
posted at 23:15
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2007年12月01日

半生日記

私は現在、50代半ば。当然のように小学校、中学校時代は、
OA機器などあろうはず、もなく、計算はそろばん、あるいは
手書き計算が当たり前、そろばん塾が町のそこかしこにあった時代
でした。家庭にあるのは真空管の黒白テレビ。よく、故障しました。
とくに、チャンネルは回転式のもので、すぐ接点がすりへり、
手で保持しなければ、チャンネルが確定できない、などの光景
が近所の家庭でも普通にみられた、ものです。私が、6歳、7歳
頃、我が家が初めてテレビを購入した頃は、毎日、夕方になると、
近所の子供達が大挙して押し寄せたものです。また、特筆すべきは
冷蔵庫。現代とは違って、電気で冷やす方式ではなく、氷の塊を
上部に入れて冷やす方式で、氷は毎日氷屋さんが配達してくれたものです。
40代以下の人はしんじられないでしょう。でも、昭和30年代は、
日本の大都会でもこんな感じだったんですよ。ちなみに私は、東京の品川です。
もちろん、家に風呂があるのは珍しい方で、大抵は銭湯通いです。
あったとしても、薪でたくのが普通、ガス風呂なんか、見たこともないくらい。
洗濯は洗濯板とたらい。冬なんか手がちぎれそうでした。この状況は、中学入学くらい
まで続いたと記憶しています。
posted at 21:44
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