30歳を過ぎた頃、またまた、画期的な商品が発売されました。それは、ワープロです。
その頃、仕事は、本社勤めになっていたので、丁度会社が初導入する、場面に居合わせたのです。
OA時代のはじまりです。その導入された、ワープロは今の大型コピー機ほどの、大きさがあり、
価格は200万くらい。高価な商品だったのです。それも、本社にたった、1台。使用するには、
数日前から、予約が必要でした。新し物好きな私は積極的に予約をし、仕事でもないのに、
とにかくさわりまくりました。ディスプレィは、いまでは考えられない、10インチほどの
小さな黒白のもの。今からみるとお粗末なものですが、当時は、最先端の技術の象徴でした。
キーボードは、タイプライターの教本を買ってきて必死で勉強したものです。
はっきり言って、驚きでした。程なくして、FM8というパソコンが1台導入されました。
「パソコン」という響きに私は迷わずひきこまれました。欲しくて欲しくてたまらなくなったのです。
しかし、これも1式そろえると数十万円。とても手のでるしろものではありません。
その頃、パソコン言語として、ベーシックというものがありました。これからの時代、
ビジネスマンとして、生きていく為には、ベーシック習得は、必須である。というような、事
が、世間を覆っていました。私も右へならえとばかりに、テキストを数冊購入し猛勉強を
はじめました。ところが20行、30行くらいのプログラムを書くのも大変で、
たとえ作ったとしても、とても仕事にはつかえませんでした。
せいぜい、簡単なプログラムの入った、カセットテープを購入して遊ぶくらいが関の山でした。
2007年12月19日
半生日記10
2007年12月17日
半生日記9
私が27歳位になった頃、テレビ大好き人間の私にとって、カラーテレビに匹敵するような、
商品が発売されました。そう、夢にもおもわなかった、ビデオレコーダーが発売されたのです。
しかし、価格は40万円位。とても手の出る代物ではなかったのです。欲しくて欲しくて
たまりませんでした。まさに私にとっては夢なのです。それから、1年、買うチャンスもないまま、
時はすぎたのです。私の好きなスポーツは、プロレス。それもアントニオ猪木が大好きでした。
勿論、力道山の頃からのプロレスファンですが、とにかく猪木が好きだったのです。
その猪木が当時としては、画期的な試合、それは空手との異種格闘技戦だったのですが、を行い
それが、テレビで生放送する予定だったのです。しかし、その日は仕事。それも夜23時まで。
到底、20時の放送に間に合うわけはありません。悶々として、試合2日前、とうとう、なけなし
の貯金をおろして、ソニーのVTRを購入したのです。その頃は下がっていたとは言え、まだ30万台。
大決断が必要でした。テープも高く、確か、2時間テープで1本、8000円位したと思います。
タイマーなど、付いてるはずもなく、母親に放送5分前に電話して、手押しで録画してもらったものです。
この状況は一年ほど、続きました。ほどなく、タイマー付きの10万円台の機種が発売され、
あわてて購入したのはいうまでもありません。しかし、まだまだ、この問題は尾をひきます。
当時、録画方式はベータとVHSの2方式に分かれていて、次第にベータは押され、次々と姿を消して
いったのです。私はソニーなので、珍論ベータ。ここでまた、悩んだ末、ベータを捨て、VHSに鞍替え。
テレビ好きは止まりませんでした。
商品が発売されました。そう、夢にもおもわなかった、ビデオレコーダーが発売されたのです。
しかし、価格は40万円位。とても手の出る代物ではなかったのです。欲しくて欲しくて
たまりませんでした。まさに私にとっては夢なのです。それから、1年、買うチャンスもないまま、
時はすぎたのです。私の好きなスポーツは、プロレス。それもアントニオ猪木が大好きでした。
勿論、力道山の頃からのプロレスファンですが、とにかく猪木が好きだったのです。
その猪木が当時としては、画期的な試合、それは空手との異種格闘技戦だったのですが、を行い
それが、テレビで生放送する予定だったのです。しかし、その日は仕事。それも夜23時まで。
到底、20時の放送に間に合うわけはありません。悶々として、試合2日前、とうとう、なけなし
の貯金をおろして、ソニーのVTRを購入したのです。その頃は下がっていたとは言え、まだ30万台。
大決断が必要でした。テープも高く、確か、2時間テープで1本、8000円位したと思います。
タイマーなど、付いてるはずもなく、母親に放送5分前に電話して、手押しで録画してもらったものです。
この状況は一年ほど、続きました。ほどなく、タイマー付きの10万円台の機種が発売され、
あわてて購入したのはいうまでもありません。しかし、まだまだ、この問題は尾をひきます。
当時、録画方式はベータとVHSの2方式に分かれていて、次第にベータは押され、次々と姿を消して
いったのです。私はソニーなので、珍論ベータ。ここでまた、悩んだ末、ベータを捨て、VHSに鞍替え。
テレビ好きは止まりませんでした。
2007年12月15日
半生日記8
期限になっても、とうとう、慶応からは、合格通知はきませんでした。やはり不合格。
2浪しようかな。とは一瞬思いましたが、不本意ながら、中央大学に通うことになりました。
こういう、経緯で私の大学生活が始まったのです。この4年間は、非常に無意味に過ぎ去った
4年間でした。クラブ活動、ゼミ、勉強などは一切せず、ただ、怠惰にすごす毎日。
あっという間に卒業が、せまり、周りは次々と内定をもらっていきました。
私も一応、会社訪問などしましたが、あまりにも成績が悪く、ほとんど相手にしてもらえません。
そして、ようやく、すべりこんだのが、当時ではまだ珍しい、ファーストフード業界。
そう、ハンバーガー屋さんです。まだ、伸び盛りで1年で何十もの新店がオープンしていた、
時代でした。私もようやく、社会人としてのスタートラインにたったのです。さいしょのお職場は
、静岡県の清水。家を離れ、3人二部屋の寮暮らしがはじまりました。しかし、伸び盛りとは
いっても、そこは地方都市。若者は少なく、かなり暇な店でした。そこを皮切りに5年くらい
の間に転勤が数回。その間に店長にもなり、かなりの数のアルバイトを使う身にもなりました。
ただ、よくいわれる、年商1億の経営者のつもりでやれ、それだけのスキルは身に付く。
といわれますが、今考えるとそんな、事は決してありません。資金繰り、支払い、税金など、
肝心な事は全部本部がやるのですから、本当の意味でのスキル、苦労は自分自身のものにはなりません。
外の社会に出て行ったら、通用しない事はその後、いやというほどわかりました。
世の中はそんなには甘くありません。
2浪しようかな。とは一瞬思いましたが、不本意ながら、中央大学に通うことになりました。
こういう、経緯で私の大学生活が始まったのです。この4年間は、非常に無意味に過ぎ去った
4年間でした。クラブ活動、ゼミ、勉強などは一切せず、ただ、怠惰にすごす毎日。
あっという間に卒業が、せまり、周りは次々と内定をもらっていきました。
私も一応、会社訪問などしましたが、あまりにも成績が悪く、ほとんど相手にしてもらえません。
そして、ようやく、すべりこんだのが、当時ではまだ珍しい、ファーストフード業界。
そう、ハンバーガー屋さんです。まだ、伸び盛りで1年で何十もの新店がオープンしていた、
時代でした。私もようやく、社会人としてのスタートラインにたったのです。さいしょのお職場は
、静岡県の清水。家を離れ、3人二部屋の寮暮らしがはじまりました。しかし、伸び盛りとは
いっても、そこは地方都市。若者は少なく、かなり暇な店でした。そこを皮切りに5年くらい
の間に転勤が数回。その間に店長にもなり、かなりの数のアルバイトを使う身にもなりました。
ただ、よくいわれる、年商1億の経営者のつもりでやれ、それだけのスキルは身に付く。
といわれますが、今考えるとそんな、事は決してありません。資金繰り、支払い、税金など、
肝心な事は全部本部がやるのですから、本当の意味でのスキル、苦労は自分自身のものにはなりません。
外の社会に出て行ったら、通用しない事はその後、いやというほどわかりました。
世の中はそんなには甘くありません。
2007年12月13日
半生日記7
そんなこんなで3校の受験を終え、放心状態。当時、早稲田大学は、返信封筒を願書と一緒に
提出すれば、合格点数と自分の点数を教えてくれました。私は勿論、返信用封筒とともに願書提出。
神頼み状態。そしていよいよ合格発表、まずは早稲田の商学部。自分では見にいく勇気などあろうはず
もなく、母親に頼みこんでみにいってもらいました。私はひたすら、自宅で電話のなるのを待って
いました。ほどなく、母親から電話。結果は?やはり不合格。目の前が真っ暗になりながら、受話器
をおきました。やはりだめ。この時、2浪をはっきり覚悟しました。数日して、今度は慶応法学部の
発表。今度も自分ではいかず、母親に頼みました。今回は前回ほど緊張せず、ほとんどあきらめていたので、
かなり余裕でした。そうこうしているうちに電話がなり、それをとると、前回とは違ったトーンの母親の声。
結果は?内容を要約すると、確かに私の受験番号は掲示板にあった。あった事はあったが、
ただし、補欠蘭に!要するに、辞退者が出た場合、繰上げ合格になるとの事。学校関係者に
聞いた所によると例年、ほとんど、が繰り上げ合格になるとの事。母親はかなり有頂天。
私も半信半疑ながら、期待はふくらむ一方。それから、毎日10回は、郵便受けを確認しに
いくことになりました。中央は合格したものの、そんなにはいきたいとは思いませんでした。
そのころ、早稲田から、結果報告の郵送がきて、2点足らずで不合格だったことが判明。
悔しいには悔しいが、全くの自宅学習でそこまでいったことに正直びっくり。
それも正味半年の受験勉強。まあ、結果がすべてですが。そして、慶応は?
提出すれば、合格点数と自分の点数を教えてくれました。私は勿論、返信用封筒とともに願書提出。
神頼み状態。そしていよいよ合格発表、まずは早稲田の商学部。自分では見にいく勇気などあろうはず
もなく、母親に頼みこんでみにいってもらいました。私はひたすら、自宅で電話のなるのを待って
いました。ほどなく、母親から電話。結果は?やはり不合格。目の前が真っ暗になりながら、受話器
をおきました。やはりだめ。この時、2浪をはっきり覚悟しました。数日して、今度は慶応法学部の
発表。今度も自分ではいかず、母親に頼みました。今回は前回ほど緊張せず、ほとんどあきらめていたので、
かなり余裕でした。そうこうしているうちに電話がなり、それをとると、前回とは違ったトーンの母親の声。
結果は?内容を要約すると、確かに私の受験番号は掲示板にあった。あった事はあったが、
ただし、補欠蘭に!要するに、辞退者が出た場合、繰上げ合格になるとの事。学校関係者に
聞いた所によると例年、ほとんど、が繰り上げ合格になるとの事。母親はかなり有頂天。
私も半信半疑ながら、期待はふくらむ一方。それから、毎日10回は、郵便受けを確認しに
いくことになりました。中央は合格したものの、そんなにはいきたいとは思いませんでした。
そのころ、早稲田から、結果報告の郵送がきて、2点足らずで不合格だったことが判明。
悔しいには悔しいが、全くの自宅学習でそこまでいったことに正直びっくり。
それも正味半年の受験勉強。まあ、結果がすべてですが。そして、慶応は?
2007年12月11日
半生日記6
国語、社会はともかく、こつこつとした勉強が必要な英語は、学力はほとんど、無い状態。
また、予備校も通学をやめていたので、完全な独学。そこで、読解力、文法、英作文、単語
の大きなジャンルに分けて、薄いのでは不安でしたので、中くらいのボリュームのものを、
各1冊購入し、いわゆる、潰す。(とはいっても、反復するだけでしたが)という、作業
にはいりました。暑い8月、当時は現在みたいにエアコンなどあろうはずもありません、。
扇風機のみをたよりに、ともかく、すきなテレビを忘れ,ひたすら、この作業にはいりました。
しかし、秋口に入り、涼しい秋風が吹くようになっても、依然、学力は低空飛行のまま。
実力がついたという感じは全くありません。英語の長文問題を読んでも、知らない単語の
オンパレード、不安ばかりが募ります。社会は世界史でしたので、これは高校時代の教科書
を反復して、暗記するのみ。国語は時間がないので完璧にすてました。日々、英語と社会
の繰り返しで、終始しました。勿論、世間はクリスマスだ、正月だと浮かれていますが、
当然のようにそんなものは無縁。その頃には一日10時間以上は、内容はともかく、机
に向かっていました。今考えてみれば、一つの事に集中したのは、これが人生で最大の
イベントでした。1月に入り、寒さも格段と増し、鉛筆を持つ手がかじかみ、鼻水が
垂れ流し状態になりながらも同じ教材を繰り返し、繰り返し勉強しました。そして
2月は私大の受験月、早稲田、慶応、中央と2浪覚悟で願書提出。自分の実力、
やってきた、教材の幅の狭さを考えると、身の縮こまる思いでしたが、こうして、
私の人生の最初の賭けが始まったのです。
また、予備校も通学をやめていたので、完全な独学。そこで、読解力、文法、英作文、単語
の大きなジャンルに分けて、薄いのでは不安でしたので、中くらいのボリュームのものを、
各1冊購入し、いわゆる、潰す。(とはいっても、反復するだけでしたが)という、作業
にはいりました。暑い8月、当時は現在みたいにエアコンなどあろうはずもありません、。
扇風機のみをたよりに、ともかく、すきなテレビを忘れ,ひたすら、この作業にはいりました。
しかし、秋口に入り、涼しい秋風が吹くようになっても、依然、学力は低空飛行のまま。
実力がついたという感じは全くありません。英語の長文問題を読んでも、知らない単語の
オンパレード、不安ばかりが募ります。社会は世界史でしたので、これは高校時代の教科書
を反復して、暗記するのみ。国語は時間がないので完璧にすてました。日々、英語と社会
の繰り返しで、終始しました。勿論、世間はクリスマスだ、正月だと浮かれていますが、
当然のようにそんなものは無縁。その頃には一日10時間以上は、内容はともかく、机
に向かっていました。今考えてみれば、一つの事に集中したのは、これが人生で最大の
イベントでした。1月に入り、寒さも格段と増し、鉛筆を持つ手がかじかみ、鼻水が
垂れ流し状態になりながらも同じ教材を繰り返し、繰り返し勉強しました。そして
2月は私大の受験月、早稲田、慶応、中央と2浪覚悟で願書提出。自分の実力、
やってきた、教材の幅の狭さを考えると、身の縮こまる思いでしたが、こうして、
私の人生の最初の賭けが始まったのです。
2007年12月09日
半生日記5
受験日はすぐ、やってきました。一応、北九州一の進学校だったので、、周りはみな、
国立を受けます。しかし私は、そんな実力は皆無。しかし、一応形だけは国立を受験。
旅行気分で北海道へ。東京へは滑り止めの私立大学を受けに。結果は?当然、全滅。
3月にはさみしく、浪人確定。暗い、暗い春がはじまったのです。すべて身から出た錆
とはいえ、現実は非常につらいものがありました。それと同時に父親が再び、東京へ
転勤。高校時代の友人とは離れ離れ。孤独感もあいまって、この時期、精神的に、非常
につらい、ものがありました。4月には東京都内の大手予備校へ入学。しかし、200人
単位の大人数の授業に全くなじめず、5月には全く通学しなくなりました。自宅に籠って
勉強と決意したのですが、こんなせっぱつまった状況でも、幼少よりの悪癖、これは
、現在もなおってはいませんが、そう、テレビ病です。参考書を見る代わりに、
新聞のテレビ番組欄とくびっぴきで、自分のすきな番組を探し出して、、その時間
がくると、テレビの前は。まさにテレビ漬けでした。そんな生活をしている、うちに
時は、早、8月。さすがの私も、なんらかの決断と実行をしなけらばならない、時期
にきていたのです。私の志望は身の程しらずの、国立理系。受験科目だけでも、9科目
あります。一日の勉強時間が30分ほどの自分には到底、無理な志望。そこで、夢を
あきらめ、急きょ、一番、科目の少ない、私立文系へ鞍替え。私立文系、は、国、社、英
の3科目。残り、半年しかない、自分には、もうこれ以外の選択肢しか、残っていなかったのです。
国立を受けます。しかし私は、そんな実力は皆無。しかし、一応形だけは国立を受験。
旅行気分で北海道へ。東京へは滑り止めの私立大学を受けに。結果は?当然、全滅。
3月にはさみしく、浪人確定。暗い、暗い春がはじまったのです。すべて身から出た錆
とはいえ、現実は非常につらいものがありました。それと同時に父親が再び、東京へ
転勤。高校時代の友人とは離れ離れ。孤独感もあいまって、この時期、精神的に、非常
につらい、ものがありました。4月には東京都内の大手予備校へ入学。しかし、200人
単位の大人数の授業に全くなじめず、5月には全く通学しなくなりました。自宅に籠って
勉強と決意したのですが、こんなせっぱつまった状況でも、幼少よりの悪癖、これは
、現在もなおってはいませんが、そう、テレビ病です。参考書を見る代わりに、
新聞のテレビ番組欄とくびっぴきで、自分のすきな番組を探し出して、、その時間
がくると、テレビの前は。まさにテレビ漬けでした。そんな生活をしている、うちに
時は、早、8月。さすがの私も、なんらかの決断と実行をしなけらばならない、時期
にきていたのです。私の志望は身の程しらずの、国立理系。受験科目だけでも、9科目
あります。一日の勉強時間が30分ほどの自分には到底、無理な志望。そこで、夢を
あきらめ、急きょ、一番、科目の少ない、私立文系へ鞍替え。私立文系、は、国、社、英
の3科目。残り、半年しかない、自分には、もうこれ以外の選択肢しか、残っていなかったのです。
2007年12月07日
半生日記4
それまで、白黒テレビで、わからかなかったのですが、実は当時は、番組は、一部カラー放送
で通常は黒白放送、ゴールデンタイムだけカラー放送だけだったのです。従って、夕方は
黒白放送、20時からのカラー放送を待たなければならなかったのです。しかし、その日
初めて我が家で見た、カラー放送、その感動は今でも忘れません。それまで、カラーは
映画館だけ。それが我が家で見れるなんて。まさに夢見心地。人気歌手の衣装の色も、
それまではわからなかったのが、色鮮やかに再現されて、驚愕の連続。まさに、第2の
娯楽の到来です。生粋のテレビっ子だった私のテレビ視聴時間は延びる一方。カラー
放送であれば料理番組までみる、始末。当然、勉強時間は少なくなる、一方。受験勉強しなければ
ならない、身としては、致命的。成績は下がるばかり。危機感一杯感じる事は感じたものの、
テレビ視聴時間は減るどころか、増える一方。高校三年になっても、この生活態度は、全く、
変わりませんでした。特に洋画放送は当時の私には魅力的で欠かさずみたものです。淀川長治の
日曜洋画劇場は、彼の最初と最後のトークの面白さもあって、大のお気に入りでした。
さらに、悪いことに、せいせきの下降に加え、1.2あった視力もみるみる下降。0.1に
ついに、眼鏡の購入にいたったのでした。正直、勉強もほとんど、していないのに、
視力が下がったのは、さすがにショックで、当時の幼稚な私でさえ、今までのテレビ三昧の
生活に危機感を覚え、あわてて、本屋へ駆けつけ、親にせびった金で受験参考書を、
一式購入。少しは受験勉強をやる気になったのでした。しかし、時は高校3年の12月、
受験はもう、目の前でした。
で通常は黒白放送、ゴールデンタイムだけカラー放送だけだったのです。従って、夕方は
黒白放送、20時からのカラー放送を待たなければならなかったのです。しかし、その日
初めて我が家で見た、カラー放送、その感動は今でも忘れません。それまで、カラーは
映画館だけ。それが我が家で見れるなんて。まさに夢見心地。人気歌手の衣装の色も、
それまではわからなかったのが、色鮮やかに再現されて、驚愕の連続。まさに、第2の
娯楽の到来です。生粋のテレビっ子だった私のテレビ視聴時間は延びる一方。カラー
放送であれば料理番組までみる、始末。当然、勉強時間は少なくなる、一方。受験勉強しなければ
ならない、身としては、致命的。成績は下がるばかり。危機感一杯感じる事は感じたものの、
テレビ視聴時間は減るどころか、増える一方。高校三年になっても、この生活態度は、全く、
変わりませんでした。特に洋画放送は当時の私には魅力的で欠かさずみたものです。淀川長治の
日曜洋画劇場は、彼の最初と最後のトークの面白さもあって、大のお気に入りでした。
さらに、悪いことに、せいせきの下降に加え、1.2あった視力もみるみる下降。0.1に
ついに、眼鏡の購入にいたったのでした。正直、勉強もほとんど、していないのに、
視力が下がったのは、さすがにショックで、当時の幼稚な私でさえ、今までのテレビ三昧の
生活に危機感を覚え、あわてて、本屋へ駆けつけ、親にせびった金で受験参考書を、
一式購入。少しは受験勉強をやる気になったのでした。しかし、時は高校3年の12月、
受験はもう、目の前でした。
2007年12月05日
半生日記3
そんなこんなで高校時代、ちょうどこのころ、父親の転勤で、北九州市、
小倉に引っ越し。生まれてから、主に東京しか、生活した事ことがなかった、
私には、かなりのカルチャーショック。まず、一般家庭はほとんどが、あの
なつかしい、汲み取り便所。そのころは東京は少なくとも、23区はほとんどが
水洗便所。仮にも100万都市、北九州市の中心である小倉でもその程度。
下水道の完備も十分でなく、みちの両脇にはどぶが!!そのせいか夏になると、
蚊、ハエが大量発生。子ども時代の記憶が鮮明に蘇る事しばしば。また、私の通っていた、
県立高校は坊主頭が校則。かばんは肩掛けの布製。もちろん靴はズック。また微妙な方言に
悩まされながら、私の九州生活が始まったのです。この頃の生活の変化の最大のものは、
我が家がカラーテレビを購入したことです。当時の大卒の初任給は2万弱。カラーテレビは
なんと19インチで20万。父親も奮発したものです。ただし、父親はごく、普通の
サラリーマンです。念の為。それまで、電気屋でちらほらカラーテレビを見ていたものの、
夢のまた夢。縁遠いものでした。それが我が家でみれるとは!配達予定の日はあいにく
学校。一刻も早く家に帰りたくてしょうがありません。終業のベルがなるや否や、
脱兎のごとく教室を飛び出し、一目散へ家へ。玄関を開け、テレビの設置されている、
今へ。早速スイッチを入れると、鮮やかなカラ画面がとおもいきや、そこはいままでと
変わりない、黒白画面が?・・・・・・・なぜ?
小倉に引っ越し。生まれてから、主に東京しか、生活した事ことがなかった、
私には、かなりのカルチャーショック。まず、一般家庭はほとんどが、あの
なつかしい、汲み取り便所。そのころは東京は少なくとも、23区はほとんどが
水洗便所。仮にも100万都市、北九州市の中心である小倉でもその程度。
下水道の完備も十分でなく、みちの両脇にはどぶが!!そのせいか夏になると、
蚊、ハエが大量発生。子ども時代の記憶が鮮明に蘇る事しばしば。また、私の通っていた、
県立高校は坊主頭が校則。かばんは肩掛けの布製。もちろん靴はズック。また微妙な方言に
悩まされながら、私の九州生活が始まったのです。この頃の生活の変化の最大のものは、
我が家がカラーテレビを購入したことです。当時の大卒の初任給は2万弱。カラーテレビは
なんと19インチで20万。父親も奮発したものです。ただし、父親はごく、普通の
サラリーマンです。念の為。それまで、電気屋でちらほらカラーテレビを見ていたものの、
夢のまた夢。縁遠いものでした。それが我が家でみれるとは!配達予定の日はあいにく
学校。一刻も早く家に帰りたくてしょうがありません。終業のベルがなるや否や、
脱兎のごとく教室を飛び出し、一目散へ家へ。玄関を開け、テレビの設置されている、
今へ。早速スイッチを入れると、鮮やかなカラ画面がとおもいきや、そこはいままでと
変わりない、黒白画面が?・・・・・・・なぜ?
2007年12月03日
半生日記2
さすがに中学入学の頃になるとガス風呂が普及し、銭湯に通う家庭も減ってきました。
また、悪名高き汲み取り便所も水洗化し、日本人の生活も段々に西洋化の波が押し寄せて
きました。もっとも、今の西洋式の便座と違ってしゃがみ式の和式がほとんどでした。
そんな、清潔感あふれる環境も大都会だけの話。大都市郊外、地方はほとんど、
旧来の汲み取り便所のまま。あの独特の目にしみる、アンモニアの刺激臭、いま
考えるとなつかしい気がしますが、もうあの頃の環境には戻れないでしょうね。
ちなみに、ハエ取り紙って、知ってますか?当時は今と違って、大規模スーパー
などない時代。買い物はほとんど、個人商店、つまり、魚屋さん、八百屋さん、
パン屋さん、かいものかごをもって、それらの商店にいくのが普通でした。
特に魚屋さんは冷蔵ショーケースなどまだ珍しい時代でしたから、ほとんど、
保冷は、並べた魚に氷がかけてあるだけ。夏などは、においにつられた、
蝿の大群にたかられる始末。そこで、ハエ取り紙の登場です。天井が何本
もつるした、何本もの、粘着テープ、そこにびっしり!!とハエがつき、
今みたら、卒倒しそうな光景が、どこの魚屋さんでも繰り広げられて
いました。それでも、みんな、当たり前のように、魚を購入していました。
たとえ、それを食べて、現代でいう、食中毒の症状になっても、
なになににあたった。それで腹壊した。なぞ、その程度で終わっていました。
そんな時代だったのです。
また、悪名高き汲み取り便所も水洗化し、日本人の生活も段々に西洋化の波が押し寄せて
きました。もっとも、今の西洋式の便座と違ってしゃがみ式の和式がほとんどでした。
そんな、清潔感あふれる環境も大都会だけの話。大都市郊外、地方はほとんど、
旧来の汲み取り便所のまま。あの独特の目にしみる、アンモニアの刺激臭、いま
考えるとなつかしい気がしますが、もうあの頃の環境には戻れないでしょうね。
ちなみに、ハエ取り紙って、知ってますか?当時は今と違って、大規模スーパー
などない時代。買い物はほとんど、個人商店、つまり、魚屋さん、八百屋さん、
パン屋さん、かいものかごをもって、それらの商店にいくのが普通でした。
特に魚屋さんは冷蔵ショーケースなどまだ珍しい時代でしたから、ほとんど、
保冷は、並べた魚に氷がかけてあるだけ。夏などは、においにつられた、
蝿の大群にたかられる始末。そこで、ハエ取り紙の登場です。天井が何本
もつるした、何本もの、粘着テープ、そこにびっしり!!とハエがつき、
今みたら、卒倒しそうな光景が、どこの魚屋さんでも繰り広げられて
いました。それでも、みんな、当たり前のように、魚を購入していました。
たとえ、それを食べて、現代でいう、食中毒の症状になっても、
なになににあたった。それで腹壊した。なぞ、その程度で終わっていました。
そんな時代だったのです。
2007年12月01日
半生日記
私は現在、50代半ば。当然のように小学校、中学校時代は、
OA機器などあろうはず、もなく、計算はそろばん、あるいは
手書き計算が当たり前、そろばん塾が町のそこかしこにあった時代
でした。家庭にあるのは真空管の黒白テレビ。よく、故障しました。
とくに、チャンネルは回転式のもので、すぐ接点がすりへり、
手で保持しなければ、チャンネルが確定できない、などの光景
が近所の家庭でも普通にみられた、ものです。私が、6歳、7歳
頃、我が家が初めてテレビを購入した頃は、毎日、夕方になると、
近所の子供達が大挙して押し寄せたものです。また、特筆すべきは
冷蔵庫。現代とは違って、電気で冷やす方式ではなく、氷の塊を
上部に入れて冷やす方式で、氷は毎日氷屋さんが配達してくれたものです。
40代以下の人はしんじられないでしょう。でも、昭和30年代は、
日本の大都会でもこんな感じだったんですよ。ちなみに私は、東京の品川です。
もちろん、家に風呂があるのは珍しい方で、大抵は銭湯通いです。
あったとしても、薪でたくのが普通、ガス風呂なんか、見たこともないくらい。
洗濯は洗濯板とたらい。冬なんか手がちぎれそうでした。この状況は、中学入学くらい
まで続いたと記憶しています。
OA機器などあろうはず、もなく、計算はそろばん、あるいは
手書き計算が当たり前、そろばん塾が町のそこかしこにあった時代
でした。家庭にあるのは真空管の黒白テレビ。よく、故障しました。
とくに、チャンネルは回転式のもので、すぐ接点がすりへり、
手で保持しなければ、チャンネルが確定できない、などの光景
が近所の家庭でも普通にみられた、ものです。私が、6歳、7歳
頃、我が家が初めてテレビを購入した頃は、毎日、夕方になると、
近所の子供達が大挙して押し寄せたものです。また、特筆すべきは
冷蔵庫。現代とは違って、電気で冷やす方式ではなく、氷の塊を
上部に入れて冷やす方式で、氷は毎日氷屋さんが配達してくれたものです。
40代以下の人はしんじられないでしょう。でも、昭和30年代は、
日本の大都会でもこんな感じだったんですよ。ちなみに私は、東京の品川です。
もちろん、家に風呂があるのは珍しい方で、大抵は銭湯通いです。
あったとしても、薪でたくのが普通、ガス風呂なんか、見たこともないくらい。
洗濯は洗濯板とたらい。冬なんか手がちぎれそうでした。この状況は、中学入学くらい
まで続いたと記憶しています。